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2026
15Mar

「命あるものの地で主の恵みを見る」滝澤 貢牧師

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https://yotsuyashinsei.jp/wp-content/uploads/2026/03/20260315.mp3出エジプト24:12−18/Ⅱコリント4:1−6/マルコ9:2−10/詩編27:7−14

 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」」(マルコ9:5)

 昔、駒場東大前に「こまばエミナース」という宿泊施設があって、そこを会場に毎夏開かれていた「教師の友セミナー」に神学生だった頃から毎年参加していました。2泊3日、全国の教会学校をお手伝いしている若い人もお年寄りも集まって、さまざまなテーマで研修し、ワークショップをし、夜を徹して話し込んだりする。もう終了してずいぶん経ちますが、あの時一緒に語り合った人とは未だに連絡を取り合うこともありますし、角光さんや井口真さんは大学生の頃、このセミナー受講生で、以来のお知り合いというわけです。
 そのセミナーの閉会礼拝のときに、こんなことが話されていたことを今でも覚えています。「このセミナーで体験したことを、自分の教会に戻ってすぐに実践しようとしないでください。もしそうしてしまうと、周りの人たちを非難することになってしまいます。ここで行ったことはここだから出来ること。現実の教会学校では先ず実現するのは難しいでしょう。そういうものなのです。でも経験したことは温めておいてください。そしていつか、現実が追いつけそうになったときに少しずつ実践してみてください。」。事実わたしはその時に体験したことをその後ずっと大切に温め続けてきて、いろんな場で自分自身が追いつけると思えたときに少しずつ実践するようになっています。今に至るまでそのような影響を与え続けてくれたあのセミナーは、今にして思えばスゴイ事だったのだと思いますね。
 何にせよ、わたしたちは時々現実から離れて、別の場所で某かの体験をしたとき、その場から再び現実に戻ることがなんとなくつまらないことに思えたり、目の前の現実がひどく情けないものに思えたり、悪いことに思えたりするものです。だから例えば貴重な体験をしたセミナーの勢いをそのまま現場に持ち込んだら、ついてこない周りの人たちを非難するようになってしまうでしょう。あるいはもはや見限ってしまった現実にわざわざ戻るのではなく、素晴らしい体験をしたその場に留まりたいと思ってしまうかも知れません。そういう感情はとても自然なものなのだと思います。
 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」」(9:5)。夢見心地になったペトロが、何をどう言ってよいのかわからないまま口にした言葉です。この箇所を読むときにわたしはいつも、「アァ、あるなぁ、自分にも」と思います。何をどう言ってよいのかわからないのに、何か口にせずにはおられない。そういう時に口走る言葉は、冷静に思い返せば恥ずかしいことだったり意味がわからないことだったりもしますが、ある意味その人の真実、あるいは裏、ホンネかもしれません。ペトロは目の前の現実なのか幻なのかわからないけれどもなんだかものすごく神秘的で、とてもステキなこの光景を、それを眺めている自分ごとこのまま保存しておきたかったのでしょう。仮小屋とはそういうことです。イエスもモーセもエリヤも、そして自分たちも、ここに、この場に永遠に留まりたい。そういう思いが、何をどう口にしたらよいのかわからなくなったペトロから発せられた。ペトロもそっち側の人間でいたかったのでしょうね。イエスやモーセやエリヤと一緒の側で、その一人になりたいと。
 しかしイエスご自身はここに留まろうなんて思っていませんでした。イエスはご自分がやるべきことについてマルコの1章でこんなふうに語ります。「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」」(1:36−38)。イエスはどこかに留まろうとはなさらなかった。求められる場所に出かけていって宣教する、そのために彼は出て来たのです。栄光を顕彰される、栄誉賞をもらうようなことが目的ではなく、求める人のところに出向いていって神が近くにいるのだと説くことが、イエスが最も大切にされたことでした。しかも残された時間は少ないのです。だから弟子たちにも下山を要求する。ここに留まりたいと願ったペトロに向かっても、山を下りよ、と。
 わたしたちには一体どれくらいの時間が与えられているでしょうか。一日24時間で7日間、168時間ですね。でも、大体人は一日の3分の1は寝ていますから、活動できる時間は112時間ほどですね。このうち、教会で礼拝している時間は1時間ちょっと。多くても2時間程度でしょうか。ということは、わたしたちがキリスト教徒としてキリスト教徒らしく生きる場所は圧倒的に教会の外ということです。110時間は教会ではないところにいて、礼拝ではない時間を過ごしているのです。当たり前ですが。でもそこは全然神秘的でもなくステキでもない場所かも知れない。人の生きる権利が踏みにじられるような、お金と引き換えに身も心もボロボロになるような場所かも知れない。だけどわたしたちはそこで生きていて、そこで生きてきたという実りを持ってまた日曜日に1〜2時間教会に留まって礼拝を捧げているのです。教会で礼拝をしている姿は紛れもなくキリスト教徒でしょう。でも教会の外で生きている時間もまた、いやむしろそここそが、本当はキリスト教徒として生きるべき時間であり場所なのかも知れません。「そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と主が仰るからです。
 わたしたちはそれぞれの一週間の実りを携えて主の前に進み出て、礼拝を捧げました。ここから神さまの祝福を受けて、再び山を下りてそれぞれのいのちの現場へと遣わされます。神さまの祝福を受けて派遣されるのです。厳しい現実がそこには待っていることでしょう。でも神さまが、わたしたちの主イエスが、「そのためにわたしは出て来た」と仰る場所であり時間なのです。その主の後ろに従って来るようにと主は求めておられるのではないか。今朝の詩篇もそのように詠っています。「わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。」(詩編27:13)。さぁ、下山して、命あるものの地へ進み出て行きましょう。

 祈ります。
 すべての者を愛し、導いてくださる神さま。あなたの祝福を受けてわたしたちは今から「命あるものの地」へ戻ってゆきます。決して聖なる場所ではない私のいのちの場、私のホンネの場で、あなたの祝福を分かち合い生きる者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

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